本能寺の変と山崎の戦いの後に焼け落ちた安土城は、清洲会議で三法師(織田秀信)を城主に、織田信雄を後見人として再興することになった。
しかし、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い以降、豊臣秀吉の天下になり、豊臣秀次が近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)で安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。
豊臣秀吉は八幡山城を安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注ぎ町が発展。金箔瓦を使用していたりと、力の入れようがうかがわれる。
1595年(文禄4年)の秀次事件で羽柴秀次は切腹、築城から10年で八幡山城は廃城となった。
城下町
別 名:八幡城、近江八幡城
城郭構造:放射状式連郭山城と居館
天守構造:不明(天守台あり:現存せず)
築城主:豊臣秀吉、豊臣秀次
築城年:1585年(天正13年)
主な改修者:京極高次
主な城主:羽柴秀次、京極高次
廃城年:1595年(文禄4年)
遺 構:曲輪、石垣、空堀、犬走り、居館
所在地:滋賀県近江八幡市宮内町19−9